読めば読むほど

読書日記など

(ブログ) 意味が生まれるとき  2009年10月02日に考えたこと

情報は、置かれた場所によって意味が変わってくるという。

 

ある夕方、楽しい集まりが終わって、二次会どうします?と話をしながら電源を入れた携帯で身内Aの危篤を知った。

 

どうして?
今朝、ふつうに話をしたじゃないか。
ふつうに新聞を読んで、食事をして、歯を磨いて、出かける準備をしていたじゃないか。

 

危篤は確定になった。家に戻って、扉を開けた瞬間から、筆舌に尽くし難い物語が始まった。

 

たぶん「筆舌に尽くし難い」には、2とおりある。

 状態1:記憶・感情がいまだ整理されていないから筆舌が尽くせない状態
 状態2:筆舌を尽くした影響に配慮して自粛している状態

およそ10日経って、こういうものを書けるようになったからには、今は【状態2】だろう。
もしかすると【状態2】のふりをした【状態1】かもしれない。

 

死亡診断書を受け取った。

 ア:直接死因
 イ:その原因
 ウ:その原因
 エ:そのまた原因

が記載されている。

そんなものは、と、お医者様には大変に申し訳ないことではありますが、身内にとっては何の意味もない。
何が書かれていようとも、生き返ることはない。


私達は、身内Aの友人Bに電話をした。
急なことで驚いている友人Bへ、電話越しに読み上げられる死亡診断書のア・イ・ウ・エは、「納得の材料」となる。


やがて友人Bはメールをしたためる。
「納得の材料」は「訃報」になる。


メールは拡散する。
「訃報」は「悲しみのはじまり」、「知り合いに伝えなければならないこと」になる。


もしもマスコミやブロガーの目にとまれば「お知らせ」。場合によっては 「情報源」になる。


いろいろあって。

ここのところ連日、石屋と返礼品業者から、電話とカタログである。
そうだ、彼らにとっては「ビジネスチャンス」なのだ。 世間は持ちつ持たれつですものね。


さて。
ワタシに降りかかってきて、それは「誓い」になった。
聞かされてきた通り、わかるべきことをわからないままでいるのは「想像力の欠如」なのだから。

「・・・でも、やってみよう」

さよならは言いません。
どうか私達を見守っていてください。